内面を売りにするヤツは雑魚

自意識の鎖を断ち切る。このブログはそのためのリハビリとして使う。思ったことをそのまま正直に文章化する。「思ったことをそのまま正直に文章化する」とはどういうことだろう、なにかを物語るということは書き手の意図にかかわらずそこには必ずフィクションが入り込む、とかそんなことは忘れる。ひとつの事柄についてまとまった文章を書こうとすると筆がまるで進まない上、すぐに自意識の鎖に絡めとられてしまうので、断片的にでも構わないから、そのときそのときの思いの丈をとりあえず書き殴っていく。体裁はできるかぎり気にしないようにする。

 

「良いヤツ」と言われるのは好きじゃない。ぼくの中では「良いヤツ」=「つまらないヤツ」という図式があるからだ。これはあながち間違いじゃないと思う。人間、一個人として悪いヤツというのは意外なほどに少ない。人間は集団になると途端にゴミ以下になる生き物だけれど、一対一で面と向かっているときに、あからさまに不愉快なヤツというのはそういるものじゃない。もちろん中にはそういうヤツもいるだろうが、彼によってもたらされる不快感の多くは、彼の心根の邪悪さではなくコミュニケーション能力の乏しさに根ざしているように思う。具体的には、空気の読めなさとか、間の悪さとか。いわゆる「アスペ」と呼ばれる類の人種のことだ。この「アスペ」的人間の対人作法については、身に覚えがあることもあって思うことが多々あるけれど、今回の主題ではないので話をもとに戻す。いま言ったように人間の大半が「良いヤツ」であるとすれば、もっぱらひとの良さにばかり言及されるということは、その人間がそれ以外に売るものを持たないということを意味しないだろうか。おもしろいだとか、賢いだとか、カッコイイだとか、そういった魅力を備えている人間であれば、わざわざ誰もが持ってるひとの良さをその人間の長所として挙げる必要はないだろう。だからぼくは、誰かに「良いヤツ」呼ばわりされると、「ああ、自分はこのひとにとって、人畜無害で取るに足らない人物に写ってしまっているのか」と落ち込んでしまう。もしかすると相手にそんな意図はないのかもしれないし、ぼく自身も過去、「良いヤツ」という言葉を使って誰かを褒めた経験はある。ここまで延々述べたようなネガティブな意味合いではなく、努めてポジティブな意味合いで。だから、いちいち気落ちする必要などないことはわかっているのだけれど、やはり「良いヤツ」のように誰にでも当てはまるような言い方ではなく、ぼく特有のなんらかの気質でもって、自分という人間を説明されたい。しかしこれはずいぶんと傲慢な考え方だし、なによりそんな優れたものを自分が持ち合わせているのかと自問自答してしまって、それによってまたふさぎ込むという悪循環に陥ってしまう。特別な人間でありたい。いや、自分はそんな大層な人間ではない。そもそも自分が特別かどうかなんてことにばかり関心が向くのは、いい歳した人間の悩みではないはずだ。もっと地に足つけて、目の前のなすべきことに取り組んで、そこで一定の成果をあげてさえいれば、そんなつまらないことに思い巡らせることもないだろう。いや、しかし、そうはいっても、でも、やっぱり。いつになれば大人になれるのかな。

 

煙草を吸いたさが尋常じゃない。この半年くらい、パソコンを弄るときは必ず煙草片手に作業していたから、パソコンを開いて一定以上の時間が経過するとソワソワしてくる。いまはベッドで上半身だけ起こしてブログを書いているわけだけど、そろそろ限界が近い。たぶんぼくは来年にはどういう形であれ、社会に出ることになるはずで、そうするとこれは早急に克服すべき課題なんじゃないだろうか。だって、仕事の大半はデスクワークだろうし、このご時世にオフィスで煙草を吸いながら仕事するのを許してくれる会社なんてないに等しいだろうから。なにを甘ったれたことをと思うかもしれないが、その甘ったれによってなんども人生の選択を誤ってきたぼくにとっては笑い事ではない。あと、いま一緒に仕事をしていて、今後もしかすると人生を通じて一緒に仕事をするかもしれないひとが筋金入りの嫌煙家であることも悩ましい。助けてください。

新時代の幕開け

  

霧が晴れた。ここ数ヶ月、何をするにもしっくりこなくて、かと言って何もしないわけにもいかないから、仕方なく「本来の自分ならきっとこれをしたいはず」と思うことを、手当たり次第にやってみては面白みを感じられずに落ち込むということを繰り返していた。でも今は違う。心と体がひとつになって、全身に血が駆けめぐっている。ウルトラセブンメトロン星人が夕日を背に対峙するカットを見て、美しいと感じられる(実相寺昭雄という監督を最近知った)。『宇宙大戦争マーチ』を聴いて、お国のために命を賭して戦いたいという気持ちが湧いてくる(別にそういう曲ではない)。吉岡里帆がテレビに映れば、今すぐプロポーズしたくなる(この表現は何重ものオブラートで包んだ)。これは王の帰還である。僕の心の主たるこの僕が、己が心の玉座に腰を据えたのだ。体内みなぎるこの万能感が、どうか3時間前に飲んだレッドブルと深夜テンションがもたらした錯覚ではないことを祈りつつ、今チキンラーメンにお湯を注ぐ。